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第528号 2002(H14).04発行

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水稲乳苗疎植栽培における育苗箱全量施肥法

京都府農業総合研究所 作物部
主任研究員 河瀬 弘一

 育苗箱全量施肥は既に取り組まれている事例も多く,本他施肥の省力化と窒素施肥量の削減が可能な環境にやさしい施肥技術として評価されている。京都府においても,コシヒカリ稚苗栽培での適用性を検討し,10a当たり窒素施肥量5.6kg(慣行窒素施肥量の30%減肥)で慣行施肥並の収量が得られるとの結果を得ており,実証圃場を設けて現場への導入を検討しているところである。本稿ではこれらの結果を踏まえ,育苗期間の短縮による育苗施設の効率的利用等が期待できる省力稲作として,現在府内で推進している乳苗栽培と育苗箱全量施肥を組み合わせた試験結果の概要を紹介する。

2.試験区の構成

 基肥全層施肥+穂肥施用の慣行施肥体系と比較して,乳苗栽培における育苗箱全量施肥栽培の施肥適量及び生育の特性等を検討した。耕種概要及び試験区の設定を表1に示した。各区ともに育苗にはロックウールマットを使用した。ただし,育苗箱肥料を施肥した区は通常の18mm厚のマットでは育苗箱の中に肥料,種籾,覆土が納まりきらないため,12mm厚のマットを使用した。12mm厚マットは新日化興産(株)に依頼し裁断したものである。

 なお,過去の乳苗に関する栽培試験において,乳苗栽培は初期生育が旺盛であるため疎植により栽培が安定し倒伏軽減効果も認められたことから,本試験では疎植と育苗箱全量施肥を組み合わせた試験設定とした。

3.移植精度と苗強度

 10a当たり使用箱数は,11.7箱でほぼ設定通りであった。

 移植時の苗丈は育苗箱に施肥することによりやや長くなる傾向が認められた。箱施肥各区は,通常の乳苗育苗で使用するロックウールマットよりも薄い12mm厚のマットを使用したことから,苗の強度不足と移植精度が低下することが懸念されたが,欠株率は各区で大差なく,移植精度は慣行施肥区と差がないものと判断された(表2)。箱施肥の苗は強度の面から取扱に注意が必要なことは否めないものの,移植に際して田植機(K社5条乗用田植機)にマットを上下2枚セットして実施しても,上部マットの重さで下部マットが崩れることもなく作業に支障なかった。

 なお育苗箱施肥することで発芽ムラが見られたが,原因は,乳苗は1箱当りの施肥量が多くなり覆土に十分吸水されないことによるものと考えられ,播種・覆土後に潅水することによって改善された(観察)。

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4.生育及び収量,品質

 収量は,箱施肥4.9kg施用区(以下4.9kg区)が慣行施肥並(2000年)~慣行施肥の95%(1999年)であった。4.2kg区及び3.5kg区の収量は各々慣行施肥の89%,87%となった。箱施肥は各区とも千粒重がやや小さくなる傾向がみられたが,4.2kg区及び3.5kg区ではこれに加えて穂数不足から㎡当り籾数が慣行施肥の93~94%と少なく,両区の低収の要因となった(表3)。

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 白米の蛋白質含量は,箱施肥各区が慣行施肥区と比較していずれも低蛋白となった。これは,箱施肥各区の葉色が穂ばらみ期以降慣行施肥より低めに推移したことから出穂以降の肥効が緩やかであったことが推察され,低蛋白に結び付いたものと考えられた。なお,外観品質は,各区で差は認められなかった(表3,図1)。

5.肥料埋没率と生育,収量

 育苗箱施肥は移植する際に肥料を稲株と共に土中ヘ埋め込むものであるが,乳苗で実施した場合埋め込みが不十分で土壌表面に残る肥料が目立った。肥料の土中埋没率は,4.9kg区が68.8%,4.2kg区が63.9%,3.5kg区が72.3%であり,1箱当り施肥量の多少による埋没率への影響は判然としなかった。同じく1999年に実施した稚苗での箱施肥ではほぼ完全に肥料が埋め込まれている(観察)ことを勘案すると,乳苗での肥料埋没率の低さは,稚苗に比べて根のマット形成が不十分で根に肥料が十分保持されていないことによるものと推察された(表2)。

 そこで,肥料の埋没率の違いが生育,収量ヘ及ぼす影響を知るため,育苗箱肥料(苗箱まかせN400-100)30粒を土表面及び土中3cmに施肥し,施肥位置と生育,収量との関係を調査した。

 穂数は,肥料の埋没率が高くなるに従って多くなった。1株当り収量も穂数と同様,埋没率が高いほど多収になる傾向を示したが,50%区と100%区の差は小さく,半分以上の肥料が土中に埋め込まれていれば,収量への影響は小さいものと推察された(表4)。

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6. Conclusion

 以上,乳苗栽培においても育苗箱全量施肥栽培は実用上問題ないものと考えられた。コシヒカリでの施肥窒素量は4.9kg/10a(慣行施肥の25~30%減肥)で慣行施肥並~やや劣る程度の収量が得られるものと考えられ,低蛋白質の良食味栽培となることが期待される。裁断した育苗マットの供給問題や施設,土質等による導入条件の検討が必要であるが,これらの点も含め実証圃場を設けて現地での適応性を検討中である。

 最後に,育苗箱全量施肥を乳苗で行う際の注意事項を稚苗栽培との相違点を中心に整理しておく。

①乳苗は10a当たりの使用箱数が稚苗に比べて少ないため1箱当たりの施肥量が多くなる。苗箱肥料の吸水量は床土に比べて小さく覆土に十分水が吸水されず発芽ムラとなることがあるため,施肥,播種,覆土後に軽く散水する。

②乳苗は稚苗よりも根張りが弱く肥料を抱え込む力が弱いため,移植時の肥料の土中への埋込みが不十分で,土壌表面に残る肥料がやや目立つが,60%以上の肥料は土中に在り,生育・収量への影響は少ないと考えて良い。

③前述のように,乳苗の育苗箱施肥栽培は,通常の乳苗育苗で使用するロックウールマットよりも薄いマットを使用していることから,強度の面から苗の取扱に注意が必要となる。移植時にマットの水分が多い状態では,苗強度が低く移植精度が低下するため,苗箱を傾けて水がしみ出てこなくなるように水切りをする必要がある。

References

1)金田吉弘:水稲の育苗箱全量施肥法,農業及び園芸,第71巻第7号,1996

2)田口嘉浩:秋田県大潟村での水稲育苗箱全量施肥栽培の効果,農業と科学,1997

 

 

北海道の水稲施肥

ホクレン農業協同組合連合会(JAグループ)
管理本部 役員室
農学博士 関矢 信一郎

 水稲の生産調整の始まる前の昭和40年代前半,北海道の水稲作付面積は26万ha余,収量は460kg/10aで我国のほぼ10%を生産していた。

 北海道の稲作は道南には江戸時代からあったが,道央で本格的に始まったのは明治6年,中山久蔵が現在の北広島市で成功してからとされている。以来130年,我国水稲作の2000年から見れば極く最近のことである。従って,本州の技術を基本的には継承しているものの,北に位置することもあって特異的な面もある。この点を含め,本稿(1)~(6)の様に農家の施肥慣行を窒素を中心に追ってみたい。

1.稲作の展開

 北海道の稲作について開拓使や道庁は禁止するなど当初は消極的であったが開拓農民は耕作を続けた。明治25年,道庁は奨励に転じ,35年には土功組合法を制定して助成を強めた。当時人口の急増や銀行の融資などと相まって開田面積は増加した(図1)。

 明治23年に2000haだったものが,36年には1.6万ha,大正元年に4.5万ha,10年には9万haと10年で倍となる勢いで,昭和6年には20万haに達した。ここでは網走・十勝などで限界地を越えた所も多く,その前後の冷害や太平洋戦争もあって昭和20年では12万haとほぼ大正末期の面積となった。戦後は再び増産に対応して造田された。戦後の造田は石狩川水系の泥炭地や洪積地が中心となった。43年には26万haを超えるが,45年からの減反により作付面積は再び13万haと半減している。

 この様に拡大-減少を繰り返しているが,これを①明治35年迄,②明治35年~昭和6年,③昭和7年~25年,④昭和26年~44年,⑤昭和45年以降に分け述べる。

 なおこの間,耐冷性,対病性,多収性,高品質など時代の要請に応じた新品種が次々と育成され収量は明治初期の150kg/10aから,昭和初期200kg,30年に300kg,43年に400kgとなり現在は500kgを超えている。

2.明治初期から土功組合法制定迄

 道庁が稲作奨励に転じた明治20年代,水田の多くは道南に分布していたが,以降石狩・後志・胆振に広がり,35年ではほぼ3分の2をこれら後発の地域が占める様になった。この頃は沢水を利用した関東の谷津田に相当するものが多く,大規模な潅漑水路を伴なうのは次期以降となる。

 開拓農民の大部分は出身地で稲作の経験もあり一定の技術は持っていた。小規摸の筑堤ならば自前で出来たと思われる。施肥についてもそれぞれの地域での方法,移住当時の肥料の知識は持っていた。因みに東北・北陸では自給肥料に魚肥が加わっていた時期に相当する。しかし,この時期の水田は新開田で地力は高く殆んど無肥料で穫れた。統計によれば大正末期でも10%程度は無肥田となっている。これも新開田に相当すると思われる。

 それでも開田後10年もすれば地力は低下して来る。しかし,開拓農民は自給肥料を作る時間的な余裕はなく,下肥や馬小屋からの厩肥では不足であった。

 購入肥料としては先ず過燐酸石灰で,明治30年代には入っていた。魚肥は産地であるが価格が高く補助的な位置付けである。これらの購入肥料は当然肥効の高い作目に向けられることになる。水田への施用有無はその農家の経営における重要性に支配される。

 地力の低下した土地を捨て,新たな新開地に移動する例も多く,初期の開拓農民の定着率は高くなかったとされている。

3.水田の北進-昭和初期迄

 明治35年「北海道土功組合法」が制定された。これは,従来個人(多くは地主)が行っていた小規模な潅漑や造田事業を組合により大規摸に行う様に行政誘導するもので,高率な補助金や低利の融資が行なわれた。新たな開田は低温な沖積が中心であったが,地力の低下した畑地も多く含まれていた。

 施肥については明治25年以来,農業試験場の成績にもとづいて指導された。農林省は明治44年全国の施肥慣行の調査を実施した。表1にこの北海道分を掲げた。なお,その後の調査結果も示した。

 熟田(開田後数年がたち,地力が安定した水田)では自給肥料は堆肥と下肥,購入肥料としては過石が主で補助的に魚粕・大豆粕が使われている。これは周年の東北地方や北臨也方に類似している。

 肥料商の話として上川地方で明治39年開田,5,6年は無肥,大正初期に過石,8,9年頃から鰊笹目,13年から胴鰊,昭和5,6年から鰊粕と段々質の良いものを入れる様になった…「北海道農業発達史」

 ほぼ10年後の大正8年では下肥がなくなり,魚粕が入っている。大豆粕・なたね粕は補助的な位置付けが続いている。なおこの期でも苗代には下肥が用いられている。

 大正末期になるとほぼ全道に水田が拡がり,施肥にも地域性が生じて来た。表2に地帯別の施肥を示した。旧開地帯は無肥料が残っており,堆厩肥と過石が主で,下肥や大豆屑も入っている。一方,限界地帯でも網走では過石のみであるのに対し,十勝では,堆厩肥と過石,更に大豆粕も入る場合がある。石狩・空知・上川の中核地帯では,販売肥料として過石と魚粕又は大豆粕,所によっては両方が施用されている。自給肥料では厩肥が多く,わらも鋤き込まれることがあった。他に米糠が施用されている。この様な差は個々の経営における米作の重要性によるものと思われる。

 因みに明治44年,大正8年の肥料成分量の推定値を表1に示した。

4.昭和中期-縮少期

 明治25年以降,道庁の奨励もあって面積を拡大して来た水稲作も,昭和6年以降続いた冷害や国の拓殖計画の変更による助成の縮減などのため頭打ちとなり,更に減少傾向となった(図1)。しかし,平年収量は伸び続け施肥法も改善された。

 この期の初めの昭和8年の施肥状況を表1に示す。販売肥料は魚粕が主流であるが大正9年に比べるとかなり少なくなっている。これは試脚暴の指導の結果と思われるが,この前年迄冷害が頻発し,多肥が不稔発生,稔失不良の原因とされたこともあろう。因にこの年は平年作であった。

 昭和9年の施肥標準はこの前年も同様とされているが,施肥実態と比べるとほぼ一致している(表3)。

 昭和5年に肥料配給改善事業がはじまった。これは,従来の卸売-小売(商人組織)に対して産業組合の肥料販売組織を育成して肥料取引における中間利潤の縮減を図ろうとするものである。その結果,北海道でも昭和8年には系統利用が金額で50%を越え,15年には80%に達した。

 昭和初期,施肥の増収効果が明らかになるにつれ肥料代が問題となった。農家の経営費中の肥料費は25%で,全国平均の36%よりも低いものの,面積が大きいだけに金額としては高額になった。また資金や利子も大きくなっていた。系統利用の急増にはこの様な背景もあったとされている。

 直播は明治中期には各地で行なわれていたが,30年代に直播機が開発されて急速に普及し,昭和7年には全面積の82%となった。以降,作付面積の減少と共に割合も低下し,17年64%,29年21%と減少していく。

 直播の施肥は早くから検討されていて,昭和8年の資料によれば追肥を除けば移植と殆んど差がない。肥料の種類から見れば速効性の肥料が望ましいが,実質的には移植と同じ様な施肥が行われていたものと考えられる。

 昭和15年から肥料は実質的に配給制になった。供給量は低下し,昭和13年に比べ16年は70%,19年は20%となった。これに伴って自給肥料の増産が図られ,緑肥導入が推進されたが,全体としては15%増にとどまり,著しい肥料不足のまま終戦を迎えることとなる。

 昭和16年の施肥標準を表4に示した。この頃では配給された肥料を効率的に使うことに重点が置かれ,市町村毎に細かくきめられていた。水稲は重点的に配給されたと思われるが,10年前に比べ著しい減肥となっている。表1の18年における施肥実態でもほぼ施肥標準と一致していて,これは統制の一面を示すものと思われる。

 終戦後,肥料生産は国の最重要政策となり,数年にして戦前の水準に達した。昭和25年に肥料の統制が無くなり,民間ペースの流通が再開された。

5.増産時代-生産調整迄

 昭和24年北海道庁は戦時中中断していた施肥標準調査を再開した。

 米生産費調査から推定した農家の施肥量を表5に示した。昭和26年当時は未だ化学肥料は単肥であり,有機質肥料も施用され,堆厩肥は0.8t入っている。窒素は無機質肥料で5kg/10a,有機肥料から1kg/10a,合計6kg/10a程度である。有機質肥料は割高で,化学肥料と置き換っていく。この年は冷害ではなかったが収量は263kg/10aでやや低かった。

 5年後の32年になると,単肥はほぼ同量であるが熔燐が登場し,石灰窒素と尿素が入れ替った。有機質肥料は魚粕があるだけで化成肥料が増加している。堆肥は0.8kg/10aとほぼ戦前からの水準を保っていた。

 水田の施肥はこの後大きく変化した。まず有機質肥料が使用されなくなり化学肥料に替った。これも40年代には高度化成が中心となり,単肥は土壌改良材として施用される熔燐だけとなった。

 昭和40年以降の化学肥料の施用量の推移を図2に示した。窒素は40年で9.3kg/10aであるが,5年前35年のほぼ2倍に達している。収量は35年の10a当り400kgから450kgと向上した。

 戦中に効果が確認された全層施肥は戦後積極的に普及に移された。25年頃から農家に拡がり34年には道央部の大規模農家を中心に全面積の75%に達した。道農政部は後に全層施肥のみでは初期生育が遅延するとして耕起前に70~80%,移植前に残りを施用する「全層,表層組合せ施肥」を奨励した。

 追肥については,北海道は生育が遅延するおそれがある,不稔を助長することがある,穂肥の効果は明らかでないなどの理由から不用として来た。しかし30年代になり,品種の中晩化,育苗技術の進歩,収量水準の向上などから追肥を鶏包する農家が増え,34年には道央部で30%,全道平均でも21%となった。道農政部は追肥の再検討を実施し,「窒素標準量の8~9割を基肥として施用し,気象の見極めがついた後,残りを施用する」いわゆる分施法を38年から奨励した。

 道農政部は昭和32年,それまでの調査事業の成績に基づいて「北海道施肥標準」を設定した。これは全道を11の農業地帯に分け,更にこの土壌別(沖積土・洪積土・泥炭土・火山性土)に施肥量(三要素の成分量)を示したものである。以降,ほぼ5年おきに改訂を重ねて今日(平成7年)に至っている。表6に施肥標準の推移を示した。

6.生産調整・食味向上の現在

 昭和45年から本格化した米の生産調整によって北海道の水稲作付面積は急減し,現在13万haでほぼ半分に減反されている。当初,生産者は多収を目指し数年で450kg/10aから500kg/10aと収量水準を上げた。その後も漸増が続き現在510kg/10aとなっている。

 昭和50年代には品質,特に食味が問題となった道産米は品質の上で評価が低く,食管制度の改正の度に価格や流通の上で不利となった現在では新たに開発された良食味米が作付されているが未だ低価格で流通している。

 食味とタンパク質含有率の関係が論じられ,低タンパク米が良食味としての評価が固定化すると,北海道では窒素施用量を減らし良食味米の生産を目指す様になった。

 施肥標準の変化を表6に見ると49年から58年では目標収量を30kg/10a増し,施肥量を0.5kg/10a程度上げているが,58年と平成7年を比較すると目標収量20kg/10a増にも拘わらず施肥量はそのままである。更に平成9年からは乾土乾果を推定しての減肥が指導されている。現在の施肥実態は施肥標準より更に低く平成11年では,平均で4kg/10aを切っている(図2)。同時に追肥も食味を落とすとされ,殆んど実施されていない。

 米質にからみ,稲わら連用の回避,珪酸資材の施用,透水性確保など,土壌改良の面からの指導もなされているが,窒素減肥ほどには実行されていない様である。

 平成9年産米から始まった米のタンパク含有率推定のための人工衛星データによるリモートセンシング利用は,平成13年には全面積の3分の2をカバーする様になった。これによれば圃場毎の米のタンパク含有率だけでなく,圃場内のムラも推定でき,種々な食味向上対策が可能になっている。

 また,この時期には田植機が導入され定着した。この経過で種々な方式が開発され,それに伴なう施肥法が検討された。北海道では現在中苗・成苗など府県よりも育苗期間の長い苗が主流となっている。

 昭和50年代後半に開発された「施肥・移植同時体系」は側条施肥を取り入れることで完成し,省力,初期生育向上などの利点から寒地向けとして北海道でも普及し,現在作付面積のほぼ30%がこれによっている。北海道施肥標準では基肥の減肥全層施肥との組合せを指導している。

summary

 最後に北海道の水稲施肥の特徴と現在の課題を前出との重複を含めまとめてみる。

 冷害対策-北海道の稲作は明治以来3~4年に1度の冷害を経験して来た。この克服には何よりも耐冷性品種の育成で,現在も耐冷性は重要な育種目標である。栽培では施肥が重視され,窒素の多用は被害を増幅し,燐酸施用は軽減するとされている。冷害対策として窒素の多用は現在も戒められ,分施法は施肥標準に留意事項に残っている。燐酸は初期生育との関係で苗代施肥では重視されているが,本田では相当量の蓄積が認められる現在では無施用でも収量が確保できることが知られている。化成肥料も以前の様な極端な山型はみられない。

 食味向上-北海道産米では食味向上が品種開発と栽培の両面で最大の課題となっている。施肥では窒素を減肥することで米粒中のタンパク質含有率を低下させ食味向上を目指している。その結果,冷害対策とされている止葉期追肥を含め,追肥はタブー視されている。稲わらの施用は生育後期の窒素供給を増加させるとして収穫後の持ち出しが指導されており,一方,珪酸資材の施用は食味向上に有効として施用が奨励されている。


 省力・低コスト化-省力は施肥の上にも求められ,移植と施肥を同時に行う側条施肥は,現在30%で導入されている。追肥は省力の上からも殆んど実施されていない。

 低コストのため化成肥料に替ってBB肥料の使用量が増加し30%程度となっている。

 均一化-道産米は業務用に向けられることが多く,ここでは大きなロットと品質の均一性が求められる。圃場区画の大きな北海道では区画内の生育ムラが大きく,この克服に可変量施肥を含む精密農法が注目されている。

References

○北海道農業教育研究会編

○北海道の水稲栽培法 淳文書院(昭和19年)

○北海道立総合経済研究所編 北海道農業発達史(上・下)中央公論(昭和38年)

○北農会 北海道における水稲和音の特質 北農会(昭和47年)

○茅野三男監修 米づくりのすべて 北海道協同組合通信社(昭和49年)

○石塚喜明監修・星野達三編著 北海道の稲作 北農会(平成6年)

○農林省統計調査部 米生産量調査(昭和33年~)

○農林省統計調査部 作物統計(昭和26年~)

 

 

富山の治水に貢献した蘭人技師(ムルデルとデ・レイケ)
(二)ヨハネス・デ・レイケと常願寺川治水-その1-

富山県郷土史会常任理事
デ・レイケ研究会員
前田 英雄

1.1891年(明治24年)の大水害とデ・レイケ

(1)常願寺川の大水害,被害状況

 1891年(明治24年)7月17日から降り始めた雨は19日にピークに達した。常願寺川中流部岩峅寺村の水量標は5.6mを記録した。(同日神通川富山市の水位4.09m)常願寺川の大洪水は1858年(安政5年)以来の大被害をもたらした。県内すべての河川が被害を受けたが,最も大きな被害を受けたのは常願寺川であった。堤防の決壊延長は左岸朝日前1183m,大中島1019m,大場前1092m,馬瀬口2366mで合計5660mになった。右岸では利田・日置前182m,二ツ屋364m合計546mで,左岸の被害が甚大だった。決壊に至らなかったが破損した堤防3944m,流失耕地600ヘクタールに及んだ。左岸島村では21日間も湛水が続くという惨状であった。島村の農民はのちに北海道や右岸立山町下段に155 戸も移住した。

(2)デ・レイケの来県と水害調査

 富山県では森山茂知事自ら陣頭に立って水害地の応急処置を施し,政府に水害復旧と改修計画を指導する人物の派遣を依頼した。デ・レイケは内務省土木局長古市公威から富山県ヘ行くように命令を受けた。8月3日東京を出発し6日に富山に到着した。同行者は13歳の娘コーバと通訳宮内直尭であった。彼らは,魚津で県の役人の出迎えを受けたとあるので長野経由で直江津から船で来航した。

 翌8月7日からデ・レイケは県内の主な河川すべての水害調査を開始した。

 8月7日 県庁で視察箇所の打ち合わせ。午後は神通川被害箇所視察。

 8日~11日 常願寺川を上滝から上流・中流・下流と3日間かけて調査。宿舎を8時に出発し帰着は午後7時8時となる厳しい行程であった。

 12日~17日 常願寺川水源調査のため立山頂上まで登る。デ・レイケの水源視察は徹底しており淀川支流不動川,木曽川でも水源部まで調査に入った。12日は上滝から奥は馬に乗ったり輿に乗ったりした。大山町本宮の高尾平五郎宅(現持主山元尹男)に宿泊。この家は1887年(明治10年)の建築で当時のまま残っており,かや葺きの屋根が瓦葺になった程度の変化しかしていない。

 13~14日 立山温泉泊。立山カルデラの1858年(安政5年)の大鳶崩れの状況を視察。想像を絶する莫大な土砂の崩壊状況をみて土砂流出をくい止めることが不可能なことを知った。

 15日 立山温泉を出発し松尾峠の急坂を登り室堂に泊まった。

 16日 室堂4時出発,山頂雄山の峰を極め,9時室堂から下山についた。芦峅寺着午後9時。

 17日 芦峅寺1時出発,岩峅まで行ったが増水のため対岸上滝に渡れず,五百石まで下がって富山に帰った。午後10時着。

○デ・レイケの立山登山の記録

 1989年(平成元年)デ・レイケの孫からデ・レイケ研究会長 井口昌平氏に提供されたものである。立山温泉や立山登山を書いた記録にウエストン,アーネスト・サトウローエルなどの記録があるが,デ・レイケの記録はいちばん詳細に書かれたもので興味深い内容である。

 記録は立山温泉から始まっている。机・椅子・寝台,寝具も県が傭った人夫で運び込まれていた。松尾峠への道は「壁のような山から空中に崖がせり出しています。何百回も折れ曲がるつづら折の道がその岩壁に造られていて…」危険な岩壁につくられた道を登った。娘コーバは強力に紐でしっかりとつながれていた。室堂への途中,地獄谷を遠望して「…百隻もの蒸気船が蒸気を吹いているような地鳴りのような音が聞こえて来ました。」とヨーロッパ人の知識で蒸気船の蒸気と表現した。室堂の様子については「三つか四つのいろりの薪の煙でいっぱいだった。私たちはそこに入るのをためらいました。」同宿している二十人程の修験者が食事の仕度と暖をとるためにいろりに火をくべていた。その煙に悩まされた。蚤の攻撃にも難渋した。雄山の頂上を目指す急坂でコーバは強力な綱に引っ張られて登った。晴れ渡った頂上の眺望の素晴らしさは実体地形図のようであったとも書いている。

 20~23日 県東部黒部 早月川河川調査に向う。

 24~27日 県西部庄川・小矢部川伏木鶴見察。

 調査に主張しない日は知事や県土木関係者との打ち合わせに忙殺された。8月6日から9月2日までの28日間の在富中休養に宛てた日は僅か2日ばかりしかないという寝食を忘れての勤務振りであった。

(3)常願寺川改修工事

 デ・レイケは1891年(明治24年)11月末から1892年1月末日まで2回来富し,1892年(明治25年)には5回も富山を訪れ常願寺川改修工事の設計・工事指揮をした。改修工事着手は1891年12月中旬に大場前,馬瀬口から行われた。

①河道設計 常願寺川と白岩川の分離

 河川の幅員は改修以前には上滝から馬瀬口の間は500間(約910m)であるのに対して,河口部に近い町袋前は70間(約127m)と狭くなるなど不規則になっており,しかも河口部は屈曲して白岩川と合流して海に注いでいた。このため改修計画では白岩川と分離して常願寺橋から下流は海ヘ直流させるために「新川」を堀削,川幅は180間(約327m)にした。河川のつけ替によって収用された水田は116ヘクタール,荒地50ヘクタールであった。

②霞堤と堤防の新築・補強

 デ・レイケは上滝から大中島までと下流町袋の一部に霞堤を築いた。霞堤は日本の伝統的な急流河川工法のひとつで,堤防は切れ目のある「不連続堤」で二重堤防の部分があり,洪水の場合下流の開口部から氾濫水が入って一時的に溢水を滞水させ,本川の減水とともに霞堤内の水も排水され氾濫を防ぐ機能を持っている。富山でも江戸時代に庄川に一番堤・二番堤という名称をもつ堤防があるがそれは霞堤のことで「湛水調節効果」を果した。

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 当時の堤防の構造は石と礫を積み上げたもので洪水に対しては脆弱なものであった。それは復旧工事は多く「村請」で行われ利益を追求する余り粗雑な構造になっていた。県はこれに対して補助率50%以上,金額100円以上の工事は県管理による工事にし,締め固めた粘土の上に玉石張りにすることにした。

 堤防工事は1891年(明治24年)12月に起工し,1年3ヶ月後の1893年(明治26年)3月に完成した。新堤防26,408mを築き旧堤防6,080mを改修した。

 当時の新聞は工事の様子を次のように報じた。

・明治25年1月8日記事(富山日報,次も同紙)
 「大庄馬瀬口から藤ノ木にかけて日々人夫男女3000人も働いている。堤防筋には一里ばかりの間に人夫の宿泊小屋が兵卆の野営をみるようで,酒屋や菓子屋の店までできた」

・明治25年6月14日記事
 「藤ノ木あたりの堤防には人夫男女6,700人が従事し,請負人は佐藤助九郎他二人で堤防の石材運搬にトロッコレールの延長は5哩(約8km)に及び,トロッコも130輌もある。石材を上流から運んだが,下流に移るにしたがい石材が乏しくなり工事に支障を生じている」

③常西合口用水の建設

 『常西合口用水百年史』はデ・レイケが進言した用水路の整備について次のように記録している。

 「湛水を引き起こした直接の原因は堤防の決壊である。常願寺川の場合は随所に用水ヘ引水するための水門が堤防の腹部に設置され,しかも,水門の前部には河中に堰を設けて,不自然に多量の水を誘導していることも湛水が発生した大きな要因となっている。…これらの理由から常願寺川左岸に設置されている各用水の取入口を全て閉鎖し,これに代る施設として上流部の安全な箇所に大規模な取水口を設ける必要がある」

 西岸九口,東岸五口あった用水取入口を一口に合併(合口化)することを説いた。しかし農民側から「苦情百出,或ハ合併ノ不利ヲ説キ,或ハ其利ヲ知ルモ経費ノ負担スヘカラスト言イ議論永ク決セス」と高田雪太郎は『常願寺川変更工事』に記している。

 1891年(明治24年)11月28日,森山茂県知事は上新川郡長に訓令して用水組合を設立して事業の遂行を図るよう関係市町村長に通知した。しかし,組合設立は捗らなかったので,県当局はトンネル部分の測量を1月に入ると開始した。用水工事立案者であるデ・レイケは自ら1892年(明治25年)1月15日,上新川郡役所に用水関係町村長や有志を集めて説得に当った。用水を経営する「上滝町外16ヶ町村組合」設立申請書を同年3月15日,ようやく郡長宛に提出された。用水事業計画が容易に進まなかった理由は,巨額な費用負担と従来通りに水が確保されるかどうかという懸念にあった。

 上滝沈砂池から上流部900メートルの墜道は地方費全額負担(県施行区域)の12万円で,沈砂池下流13kmの用水部分は1万5949円余は組合負担であったが,農民の根強い反対があったため67%の補助金を受けた。事実上用水施行費も県に依存したようなものである。用水の完成は1892年(明治25年)10月で,全面疎水は1893年(明治26年)になった。

 合口用水規模と潅漑面積は次のようになった。上滝沈砂池上流900mは墜道で大川地段丘の岩壁を貫き最上流部に取入口を設置した。上滝沈砂地から下流新庄分岐点の水門までの幹線水路は約13キロメートルで水路幅は31~13mで,上流部と下流部の標高差が140mあるため,上流部では約100mごとに急流緩和工事を施して落差を解消しながら用水を流した。

 潅漑面積は約7000haにおよんだ。合口用水開通後も度々の出水で用水が破壊されたり墜道が埋まったりしたが,大正末期に富山県県営発電事業が完成したのでその放流水を合口用水が受水することによって安定した。

 合口用水がもたらした恩恵は,農業潅漑用水として従来の水不足を解消し,上水道として富山県市民32万人の90%を賄っている。また,合口用水を利用した潅漑用水発電所5ヶ所で2万1100Kwの発電をしている。

(4)デ・レイケの常願寺川治水の歴史的意義

 常願寺川改修工事は富山県内河川で最初に西欧土木技術による本格的な湛水防御の大工事であった。これを契機に県内河川の治水は本格化した。常願寺川と白岩川を分離して捷水路をつけた方法は神通川・庄川にも適用され富山県の治水を大きく進めた。また,常西合口用水の建設は多くの取水口を除き堤防破壊による水害を頗る減少させ水の利用効果を高めた。デ・レイケによる治水工事は富山県全河川の治水に貢献するところが大であった。明治期の県予算の歳出の中で治水費が占める割合は莫大なものであったが,治水が進むに従いその工事費は減少し治水以外の教育・産業振興に振り向けられ県政発展につながった。